-1st day Lapis side 1-


「――あなた、誰?」
それが、私が此処に来て最初にかけられた言葉であった。
 古くなった書架の香りが、つんと鼻を突く。どうやら此処は、書斎か何かのようであった。
 唐突にかけられた言葉もそうだが、召喚された時に感じる筈の、魔力も…何故か殆ど感じない。
 そんな所に呼び出され、私は不思議、というよりは少々不気味に感じた。

「私は魔界から召喚された魔族――ラピスと申します」
そんなことを思いながらも、決まりの挨拶をする。魔族…通称”悪魔”が呼び出される立場である以上、挨拶は必然であり当然のことなのだ。

「…?」
頭上から降ってくるであろう命令を、私は待っていた。
 が、声は何も下りてこず――私は、思わず上を見上げた。
 最初に聞こえた声から、相手は少女であると推察する――恐らく、十代後半の。

「…どうして」
相手の声が、聞こえた。
「どうして、あなたは此処にいて――あたしは此処にいるの」
声が、震えている。

「…私は、貴女に召喚されたから此処にいるのです――貴女が何故此処にいるのか、まではわかりませんが」


-1st day Olive side 1-

 何が起きているのか、わからない。

 気付いたら、あたしは此処に立っていて。
 右手には、長くてきらりと光る鎌のような――根元に宝石の埋め込まれている杖が、しっかりと握られていた。
 左手には――一枚の、カード。

「私は魔界から召喚された魔族――ラピスと申します」
目の前にいる、銀髪の綺麗な男の人はその銀髪をさらりと揺らして私の前に跪いて恭しく礼をした。
 尖った耳、角――一発で、相手が悪魔だということがわかる。
 知りたいのは、そんなことじゃない。
 この人は、何で此処にいるのだろう。

 そして、この体を使っている「あたし」も、何で此処にいるのだろうか。

「…?」
何も答えない私に、目の前の悪魔――ラピスが、不思議そうにあたしを見上げる。
 あたしは、何も答えることが…出来なかった。
 やっとの思いで、喉から声を絞り出す。

「…どうして」
相手の表情は、不思議そうに此方を見つめたまま。
 あたしの表情は、この人にはどう映っているのだろう。

「どうして、あなたは此処にいて――あたしは此処にいるの」
心が、揺れる。
 目に映る景色は、何もかも見覚えが無くて。
 だけど、何もかもが懐かしくて。
 手にしている杖も、握る手には全く違和感が無い。

 だけど、どうしても…思い出せないのだ。

「…私は、貴女に召喚されたから此処にいるのです――貴女が何故此処にいるのか、まではわかりませんが」
相手の口から出てきた、艶のある声は――そう、言葉を紡いだ。
 あたしは左手に持ったカードを見た。それは、相手の姿が描かれた一枚のカード。悪魔の召喚に必要なものだ。
 何故か、あたしの中でそんな知識が思い出される。

「わからないのよ」
「…わからない、と仰いますと?」
「思い出せないの」
思い出そうとすればするほど、頭が激しく痛む。
 催すような吐き気を感じて、あたしはその場に座り込んでしまった。

 と、ラピスは――あたしの頭を、そっと撫でた。
 確かめるように触れるその感触は、とても優しい。
 あたしは、思わず相手を見上げる。

「…貴女の魔力で私と契約するには、一週間が限度でしょう。私の務めは、あなたの記憶を取り戻す手伝いをする――ということで、宜しいでしょうか?」
あたしに映ったラピスの瞳は――何も映していないかのように動かない。けれども、その表情は――微笑んでいた。
 あたしは立ち上がり…首にかけられた瑠璃色のネックレスのトップを、ラピスに手渡す。ラピスは、そっと其れに口付けた。

「それじゃあ、…ラピス、一週間の契約を施行します」
記憶を無くした筈の私の口からは、何故か――その契約施行の台詞が、さらりと出てきたのであった。


-1st day Lapis side 2-


 時間は夜であるようで、あたりは薄暗い。
 少女は気を動転させながらも、少々落ち着いてきたようだ。
 とりあえず…と、別室に案内されて椅子に座らされる。少々”力”を使えば、この屋敷内はそう危険ではない。
 柔らかな感触は、どうやらどこかの部屋のソファであって。
 隣に、少女が座ったのも感触でわかった。

「貴女の御名前を…私は聞いていませんね」
「あたしの名前?オリーブよ」
即答で返事が返ってきた。その声に迷いは無く、反射で出てきたもののようである。

「…あれ」
と、言った本人が不思議そうに言うのが、聞こえた。恐らく、自分の口から自分の名前が出てきたことが不思議なのだろう。
 この少女の記憶喪失は、やはり一時的なものであるといえる。
 証拠に、契約施行の台詞やこの場所――恐らく屋敷であるだろうこの建物の構造から自分の名前まで、普通に知識としてあるものは口に出ているからであった。

 何故かオリーブという名前を聞いたとき、私の心は、僅かに揺れた。
 以前、この少女の名前を…私は、聞いたことがある。
 しかし、オリーブなんて名前は女性の名前では珍しくは無い。そのまま、気に留めずにいることにした。

「どうやら貴女の記憶は、一週間あれば充分取り戻せるでしょう。…少し、話をしませんか」
少女の、ん、と、肯定を示す声が…私の耳に、響いた。


-1st day Olive side 2-


 オリーブ。
 あたしの名前。
 何故か不思議なほど自然に、口から出てくる。
 そうだ、あたしの名前はオリーブだ。
 名前がわかっただけで、何故か妙に心は落ち着いてきた。

「…それではオリーブ様」
「様、はやめてよ。落ち着かないわ」
「そう言われましても…困りましたね、女性にはこれで呼ぶのが癖なのですが…」
ラピスは困ったような顔をする。私は少し考えた。思わず頬を軽く掻く。
 別に「様」で困るわけじゃないけれど、なんとなく落ち着かなかっただけだし。
「…まぁ、良いわ。様でも」
「ありがとうございます。では、オリーブ様。貴女は魔法使いですね?」
あたしは迷わずこくりと頷く。
 そりゃあ目の前には悪魔がいるわけだし、その悪魔はあたしが召喚したんだし。
「自分で言うのも何ですが、私は高等な部類に入る悪魔である上に、此処のところずっと召喚を拒否し続けてきました。しかし…私は此処にいる」
あたしは更に頷いた。ラピスはそのままの表情で話を続ける。

「ということはつまり、貴女はそんな私を召喚するほどのパワー…魔力があったということになります」
ラピスの声は、淡々と話しているけれども何故だか力強さを感じた。

 …そうか、つまりそういうことになるんだ。高等な悪魔を召喚するには、それだけの代償が必要ということになる。

「しかし」
まだ何かあるの?あたしは、そう言いそうになったのを口を押さえて防ぎ、顔を上げてラピスのほうを見た。
 と、私はラピスの方を見たが…ラピスは、此方一点を見たまま話を続けている。
 まるで、あたしのことが見えていないかのように――

「…貴女からは、私を一週間拘束するのが限界な程の魔力しか感じることが出来ない。私を召喚することが出来たのならば、もっと長時間拘束するほどの魔力の器があっても良い、ということになります」
ラピスは、あたしに構わず普通に話し続けるが…私は、ついに気になって、ラピスの前で軽く杖を振るった。

「…オリーブ様?」
ラピスの反応は、僅かに遅れた。きっとこの疑問符は、あたしが返事をしなかったことに関して、だけ。

「…あなた」
「…?」
「目、…見えてないの?」
恐る恐る問いかけた私に、ラピスは表情を緩め、微笑に変えた。
 とても綺麗な瞳なのに、何故か全く動いていない。

「…気付いてませんでしたか、私の目は…見えておりせん。こちらの世界で言う盲目、というものです」
ラピスは、平然とそう答えた。私は目を見開く。
「!?嘘…」
「嘘ではありません。この目で感じ取れるのは、僅かな明暗くらい…それも白と黒の世界で、あなたの姿がどうであるかも――私には見えておりません」
すぐには信じられなかった。普通、目が見えない人というのは何処かしら行動に違和感がある。そういうものだとあたしは思っていた。
 しかし、ラピスの行動には今まで全く違和感が無くて、話すときはちゃんと此方を向いてはいるし、私についてきた時だって躓きもしなかった。

 其の瞳が全く動かないこと以外、普通の人間と殆ど変わらない。

「…大丈夫、なの?」
「ご心配には及びません。私はもう長くこの体でおります故、体が慣れていますから。それに、その分気配や聴覚、魔族である特有の感覚でほぼ全てを感じ取ることができます」
そういうもの、なのかしら…わからないけれども、ラピスはそのまま微笑んでいる。
 とりあえずあたしは、納得するしかなかった。

「…話を続けて、よろしいでしょうか?」
「あ、…うん。お願い」
ラピスの話は、まだ続いた。思わず背筋が僅かに伸びる。

「…はい、ええと…魔力の器、と言いましたね。ところが貴女からは、一週間拘束するのが限界なほどの魔力しか感じることができない…とも言いましたが」
「うん」
ラピスの表情が、真剣なものへと再び変わる。あたしもついつい、僅かに眉を顰めた。
「召喚するという動作は、それなりの代償が必要となるわけです。本来魔法使いは己の魔力を代償にそれを召喚するわけですが、あなたの場合は恐らく…魔力だけでは足りず、あなたの”想い”――すなわち”記憶”を代償に入れてしまったのだと思います」
ラピスの声が耳に響く。と、あたしの頭にある考えが一つ、浮かんだ。

「…それって」
「何でしょう?」
「あなたの召喚を解けば、あたしの記憶は戻るかもしれない…ってこと?」
ラピスは軽く微苦笑を浮かべる。

「…其れは、私にもわかりません」
ラピスは、顔に微苦笑を浮かべて言った。

「本来、召喚師である魔法使いは魔力も日を追うごとに取り戻していきます。アイテムで即効的にも取り戻せるものです。しかし、記憶はそう上手くいくかはわかりません」
流石に、そう上手くはいかないようで。私は、思わずため息を吐いた。

「…オリーブ様、さっきも申しましたとおり。私の見たところ…貴女の記憶は、一週間もすれば取り戻せるものだと思います」
「…」
「貴女が召喚を解いてしまわれるのも、貴女の自由――ですが、貴女が私を召喚したということは、何かしらの目的があるはずです」

 ラピスの声が、耳に響く。私は俯いてしまっているから、顔は見えないけれど。
 …そう、私は何か”目的”があってラピスを召喚したはずなんだ。
 ”記憶”すら、代償に入れてしまうほどの大きな――目的が。

 あたしは、顔を上げた。

「…ラピス、命令するわ」
ラピスは、そのまま黙って次の言葉を待つ。


「一週間。あたしの身辺を守ってちょうだい」


 こうして、私とラピスの一週間限りの”契約期間”が――始まった。
 まだ、その”目的”すら、わからないまま――




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