「――秋草」
「…ん…何だ?」
「ちょっと、付き合って欲しいところがある」
晴架は僅かに開いたままの窓からそっと紫煙を逃がし、指先で煙草を軽く持つと静かに言った。
 同じ程度に開かれたカーテンが、風を纏ってひらりと揺れる。

 その横顔は、どこか自分には見えない世界を見つめているようで――
 俺は、ただ頷くしかなかった。



 それは、ある秋の日のことで。 A side





「…とりあえずこれ着てけ」
「スーツ…?」
「夢芽のだ、サイズそんなに違わねぇだろ」

 少しばかり肩幅の広いそれに、青いシャツ。
 晴架は目の前のクローゼットを漁っている。

 普通、だな。
 まぁ、何時もより口数は少ないが。

 夕べの様子を思い出して少し安殿の息を吐いた。
 あまり思い出すと自分のことまで思い出してしまうのだが――

 晴架は――泣いていた。


「ネクタイは…俺のでいいか」
「…晴架、今日は…」
「着替えとか荷物はひとまずウチに置いとけ、後で取りに戻ればいいし」
まるで用意された台詞をよくできた演技で発するような語調で晴架は言う。
 あえて多くを聞かないことにした。聞いても、はぐらかされるか今のように無視されるだけだろう。
 普段なら、この態度には些か不満をおぼえるところではあるが――今日の晴架は、何故か俺にそういった気を一切起こさせなかった。
 慣れ、とはまた違う感覚である。
 何故晴架の部屋に夢芽のスーツが置いてあるのかとか、疑問は多々あったがそれもあえて口には出さないでおいた。それは後で聞けばいい話だろう。

「朝飯は途中で食ってく、悪いけどあんま時間ねぇから急いでくれ」
語尾が少しだけ、優しい。俺は一度頷くと着替えに掛かった。

「………」

 ちらりと見た晴架の横顔は、相変わらず何かを考え込んでいるような、はたまた何も考えていないのか読めないものであった。
 早々に着替えてしまった彼は、黙々と黒のシンプルな鞄に荷物を詰めている。
 しかし眼はいつもの度入りのカラーコンタクトではなく、学校に行くときのみ掛けているという銀フレームの眼鏡が掛けられていた。


 着替えを終えると、言葉少なげに俺たちは暁家を後にした。



「乗れよ」
「ああ…って車か?」
暁家の隣の車庫には、一台の車が駐車してあった。晴架が運転席に乗り込むのを、ややあって自分も乗り込む。
 ここの家の車庫に車が置いてあることを、俺はあまり見たことが無い。一度か二度、この車とは違う車が置いてあるのを見たことがある程度だ。
 話によると美弥と夢芽の母親の自家用車があるらしいが、美弥と夢芽の母親は会社で寝泊りするのも珍しくないほどの激務でこの車庫が有効活用されることは少ないとの話であった。

「言ってなかったっけ、免許取ったんだよ、俺」
「初耳だ…いつの間に」
「大学の傍に教習所があってな、講義の空き時間に地道に通ってた。これは親父の車だけど」
いつ取ったか、までは口にしなかったもののエンジン音とともに動きだした晴架の運転にはひとまず心配は無いようであった。
 俺は大人しく隣で外を眺める。
 音楽関係のチャンネルに合っているラジオが、耳障りにならない程度に流れていた。

 ファーストフード店のドライブスルーで朝食を買うと、俺に袋を寄越す。
 晴架は合間合間にバーガーを頬張りながら運転を続けた。

 車は高速を走り、一時間ほど走ったところで休憩を取った。
 晴架の口数は相変わらず少なく、車内はラジオの音が響いていた。
 車はパーキングを出ると、止まることなく一定速度で走り続ける。
 気まずい空気は全く無い。話しかければ返してくるし、俺たちの場合どちらかが不機嫌でもない限り気まずい空気というものは殆ど生まれないのだ。
 しかし、連続運転が二時間を越えたあたりで流石に晴架の様子が心配になってきた。

「…休憩しなくて大丈夫なのか?」
「ン、大丈夫」
「過信は禁物だぞ、次のパーキングでもう一度休憩しないか」
「や…もう十一時だし、そろそろ高速下りるから」
ここまで来て、晴架の口から初めて「悪いな」という言葉が出た。
 俺は一瞬言葉を失うと、いや、と返す。

「何か大切な用事があるんだろう?」
「…ああ」
晴架はそれだけ短く口にすると、標示の文字を確認するように視線を上げ、ウインカーを左に出して高速を降りた。


「…ちょっと待っててくれないか」
高速を降りて程なくして、立ち寄ったのは花屋であった。
 晴架だけ降り、店主と何かを話している。
 俺は目の前のアナログ標示で時間を確認すると、後部座席が開いた。

「…」
ぱさ、と置かれたのは白い百合の花束であった。

「悪いな、もう着くから」
「…ああ」
花、ということは祝い事の席なのだろうか。
 しかしその考えは一瞬で取り払われた。祝い事の席であれば、ここまで自分に黙っている理由は無い。


 晴架が車を停めた。
 そこは、極一般的な割と広大な駐車場だった。

「着いたぞ」
短く言うと、晴架がシートベルトを外すのに合わせて自分のも外す。
 降り立つと、そこは――



「…墓地か?」
「ああ」

 晴架は後部座席から花束を取り出し、施錠すると歩き出す。
 俺はその、一歩後をついていくことにした。



 芝生の上に立ち並ぶ西洋式の墓。
 晴架はその一つの前で、立ち止まった。
 膝を折ると、手にした百合の花束をそっと供える。
 ぱさ…と、静寂の中を音が響いた。

『REI KUDOU』

 そう刻まれた墓の前で、晴架はその墓石をただひたすら見つめている。
 その表情はどこか自分の知っている晴架のものではないようにも見えた。

 何かを真剣に語り合っているような、真剣な眼差しであった。


「ここに眠ってるのはさ」
徐に、晴架が語りだす。
「俺の、大切だった人――昔の恋人なんだ」
あまり突然のことに、俺は言葉を失う。
 口調はいつもの晴架のものだ。
 が、その口調は独白のようで、言葉を慎重に選んでいるのが伺える。

「いや、恋人…は、可笑しいかもしれねぇけど」
ゆっくりと立ち上がると、「帰ろう」と一言言って俺の腕をそっと押した。

「…もういいのか?」
「ああ、用は済んだ」
その後ろを、再びついて歩こうとすると――晴架が急に立ち止まった。

「…?」
すると、正面には自分たちと同じようにスーツに身を包んだ――否、自分たちよりよっぽどスーツの似合う出て立ちの男が立っていた。
 それも、全く知らない姿ではない。

「…工藤」
晴架がぽつりと呟く。
「もういいのか?」
工藤雅――学校の養護教諭である、は、さっきの自分と同じ言葉を紡ぐ。
 晴架は「ああ」と一度頷いた。

「用は済んだ、…行こう、秋草」
「あ…ああ」
晴架に手を引かれ、咄嗟に声が上擦るもそのまま歩き出した。
 墓石に彫られた名前は「KUDOU」、思えばこの場に居合わせた彼の苗字も「工藤」だ。
 親戚か何かなのだろうか――一瞬頭を過ぎったが、晴架は工藤とすれ違い、数歩歩いたところで再び止まった。

「…安心しろよ」
その声に、同じく歩き出していた工藤の足も止まる。
「あ?」
「俺が来るのは、これで最後にするから」
それだけ口にすると、晴架は「じゃーな、おっさん」と反対の手を振ると振り向かずに歩き出した。
 工藤は「…おう」と低く返事をしただけで、再び墓地に向かってこちらに背を向け歩き出した。

 手は相変わらず硬く握られたまま、晴架はただ何も言わずに歩いている。
 此方を伺いもしないその大きな背中は、時折本当に何を考えているのかわからなくさせる。
 気付いたらいなくなっていそうで、一人どこかへと旅立っていそうで。
 実際それで消えたことが何度かあるのだが、それは何度経験しても慣れない。
 見上げた横顔は、相変わらずどこか遠くを見ている。

「…晴架」
「ん…?」
「大丈夫か?その…」
自分の口を突いて出た言葉は、全く続く言葉を考えずに出てきたものであった。
 その言葉に立ち止まる。場所は、丁度出口のあたりであった。

「…大丈夫だ」
に、と口角だけ持ち上げると晴架は一度辺りを見渡す。
 平日の日中であるせいか、先ほど工藤とすれ違った以外この墓地には誰の気配も無い。
 大体ずっと手を繋いでいたのだから、気配を確認するのは今更な気もするのだが――

 すると、一瞬握られていた手が引き寄せられたと思うと晴架の唇が自分のそれに一瞬だけ触れた。

「…っお前、…!」
時と場所を考えろ、と抗議の表情を浮かべ喉まで出掛かったが晴架の表情にその言葉は喉元で止まってしまった。

 驚くほど、穏やかな表情。

「いーんだよ、ここで。ホラ帰るぞ」
晴架は結局その手を離さず、車まで俺を引いていった。
「今日はそのために連れてきたんだからな」
「は…?」
「命日ついでに報告しに来たんだよ、俺は元気でやってます、だから心配しないでくださいってな」
おどけたように言うその口調は、いつもの晴架そのもので――俺はどこか、肩の力が抜けるのを感じた。


 晴架は車に乗り込むと、帰路を走りながら俺に昔の恋人について話し始めた。

 彼女――工藤麗と知り合ったとき、彼はまだ中学生であったと。
 そしてその頃、彼女は既に同じ大学出身であった工藤雅と結婚していたこと。

 雅によって出来た麗の心の隙間に、高校に上がったばかりの晴架が入り込んだこと。


「…だから、恋人っつーより言うならば愛人って感じだった訳」
「高校一年生で愛人か…」
「そ、俺その時もう今ぐらい背ぇあったし、体型も殆ど出来上がってたからな」
見てくれは二十代って言っても通用したんだぜ、と、懐かしむように晴架が笑う。

 そしてその愛人関係も、長くは続かなかったこと。

「俺、知ってたんだよ。寝言でたまに麗さんがアイツの名前呼ぶの」
「…」
「それでも麗さんは口では俺を好きだと、愛してるって言った。俺はそれを信じていた…馬鹿だった訳だけど、あの頃の俺には麗さんが全てだったから」
表情は変わらず、まるで昨日のことを語るような口ぶりで語る。

「それでも、不安は拭えなかった。あの人いつも夜明け前には帰ってくんだけど、ある日俺が帰るなって我侭言ったんだよ」
「…」
「それを聞き入れた麗さんが結局明け方まで一緒に居てくれて、朝になってから帰っていくんだけど…」
一度言葉を切り、息を吐く。

「その後、彼女は飲酒運転の車に当てられて死んじまったの」
「………」
言葉が、出てこなかった。
 晴架は先ほどまでと同じようにただ、正面だけを見て、真剣な眼差しで言葉を続ける。

「…麗さんさ、いつも言ってたんだ」
「…?」
「あなたはまだ若いんだから、こんなおばさんに現を抜かしてないで早くいい子見つけて幸せになりなさい、って」
晴架はそのまま、静かに語る。
「麗さんが死んでから、俺は来るもの拒まずになった。寂しさが埋まれば誰でもいいと思ってた。大して好きでもねぇ奴を抱いたりもした」
少しだけ、胸の奥が痛むのを感じる。
「けどよ、俺はずっと…誰と付き合っていても、麗さんに後ろめたい気持ちがあったんだ…ちと、停めるな」

 晴架は脇に車を停車しシートベルトを外した。
 周囲に特に目立った建物も無く、人通りも少ない場所であった。
 駐停車禁止も見えないから、きっと支障は無いのだろう。

 シートに背を預け、エンジンを止める。しん、と車内が静かになった。

「誰も好きにならなかったわけじゃないし、付き合ってた奴の中にそれなりに好きだった奴もいた、けど後ろめたさは止まらなかった。…俺の中に、まだ確かに麗さんがいたからだ」
自分の胸を押さえ、言葉を次ぐ。
「晴架、もう…」
思わずそんな言葉が、口を突いて出た。
 しかし次の表情を見て目を疑った。

 笑って、いる?

「…でもな、秋草」
自分の名前を呼ばれると、思わず身体がぴくりと反応する。
 晴架はさっきまで外にやっていた視線が、此方を向いていた。

「気付いたんだ、俺の中で今…麗さんは過去の人になったって」
「…」
「こうやってお前にあっさり喋れてるのが証拠だ、…お前と付き合うようになってから、確かに変わった」
ハンドルに両腕をかけ、此方を眺めながら口角を上げる。何時もの晴架の笑い方であった。
「夕べのあの後、朝起きてから考えて俺といるのはもうお前以外考えられないと思ったんだ。…だから今日、お前を連れてきたんだよ」
夕べ、という言葉に俺は思わず下を向いた。顔が焼けるように熱い。
 髪で表情を隠すように覆う。いや、きっと隠しきれてはいない。
 同時に手で顔を半分ほど覆った。

「お前という奴は…」
「ま、だからこそ朝から強行ドライブなんていう手段に出たわけだけどな」
笑みのまま、茶化すように晴架は笑う。
「まったく…」
「秋草」
晴架は一言言うと、顔を上げた俺にちょいちょい、と自分の方を指差す。
 少し運転席側へと身を乗り出すと、晴架の手がそっと俺の肩を抱き寄せ、眼鏡を外すと唇を塞いだ。
 それは数秒足らずの短いもので、唇の離れた一瞬、晴架はその至近距離で俺の目を真っ直ぐに見つめた。
 視線が、絡まる。ただでさえ蒸気した顔が更に熱くなるのを感じた。

「…秋草」
「はる、…」
「今更かもしれねぇけど、…このタイミングで言うのは卑怯か…」
これまでとは違い、言葉の歯切れが急に悪くなる。最後のほうは、視線を外して小さく呟いていた。
 が、一度目を閉じると意を決したように再びこちらを向き、目が合った。

「…お前は、俺の傍を離れるな。…いや…離れないで、くれ」

 それは、搾り出すような小さな――されど、愛しくてたまらない、声。

「…………」
俺はそのまま晴架の肩から逃れ助手席のシートに顔を埋めて俯いてしまった。
「ちょっ…と、秋草?秋草さーん」
晴架の発言がいつもどこか確信犯で卑怯なのはいつものことで、それにはある程度の耐性がついたつもりでいた。
 しかしそれは、あくまで『つもり』だったということを今思い知らされた。

 心臓が、早鐘のように鳴り響く。
 僅かにシートから顔を離し晴架の方を伺うと、見たことも無いほど困った顔をした晴架が居た。
 何時もの晴架とは思えないほどの違和感を覚えるも――

 そこで、俺はあることに気付いた。

 晴架があそこまで、言葉を渋った理由。

 いつもは与える一方で、精神的な見返りは一切求めないスタンスを貫いている晴架。
 と言うよりは、一時の快楽を求めある程度その日付き合いに近い台詞ばかりを吐いてきた晴架。

 逆を言えば、未来を見据えた言葉は――殆ど、聞いたことが無かった。

 言葉でなくとも晴架からは沢山のものを与えられていると思っているし、
 以前の俺なら少しは気にしたことかもしれないが、今更それを俺自身が気にしていなかったから今まで気付かなかったが。


 そんな晴架が、傍を離れるな、と?


「…本当に今更な言葉だな、それは」
「はは、…だよな」
「晴架」
俺は意を決すると再び晴架に向かう。
 晴架はそのまま、真っ直ぐ視線を返した。


「俺はお前の傍を離れるつもりは無い。今までだって、…これからだってずっと、お前の傍に居るつもりだ。…その代わり」
「…」
「…晴架も、俺を離してくれるなよ」
言い終わった後、案の定顔が再び一気に熱くなった。
 晴架は一瞬目を丸くしたようだが、そのまますぐに笑顔になって

「…ああ」
と、しっかりと頷いた。
 後、頭の後ろに手が伸びてきて髪をくしゃ、と撫ぜるとそのまま自分のほうへと引き寄せてキスをする。
 そのまま耳元で小さく、呟いた。

「愛してる、秋草」
「…俺も、…愛してる」
「っ、言っとくけどな、…俺にマジで愛してるって言わせたの、お前が初めてなんだぞ」
悪戯っぽく目の前で笑って言う。俺は思わず晴架を見返した。
 思えば晴架と付き合いはじめて少し経った頃、俺がそれを強請ったのだ。
 晴架はらしくもなく照れていて、それでいて言われた自分は――さっきの自分のような態度を取ったような気がする。


「…畜生、帰れなくなっちまう」
晴架は俺から離れると、運転席に座りなおした。
「晴架、…まだ昼過ぎだぞ」
アナログ時計を指すと、晴架は「お」と呟く。
 考えるように唇に手を当てると、
「今から帰れば、家着くのは四時過ぎぐらいだな…」
と独り言のように呟き、エンジンをかけた。

「ンじゃ、当初の予定通りデート開始っつーことでどっか行くか」
「帰るんじゃなかったのか?」
「ああ、ひとまず帰るぞ、んでお前の荷物取って着替えて、二人で夕飯食い行って――」
此方の意見を一言も聞かず、すらすらと口にする。
「で、今夜は俺ン家かお前ン家。どっちにする?」
にぃ、と口角を上げた何時もの笑みで晴架は此方に問いかけた。
 俺は思わず肩を竦めると

「…俺の家で」
と、一言口にした。



 俺は、あえて晴架のほうではなく外を見ることに専念した。

 だらしなく緩んだままの顔を見られるのは、少しばかり癪だから。







fin


→H side


時間軸的にはH→Aの流れなんだけど、この話的にはA→Hでもいい気がするのです。

晴架大学一年生、秋草君高校三年生設定。
晴架は麗さんの墓参りには毎年欠かさず行ってます(Go to...に載せた「そのあと」では行ってなさそうですが、行ってるんですってことで/…)
「そのあと」の一年後かな、これは。「そのあと」の時は一人で墓参りしたんだと思うんですよ。んで、やっとマジに付き合える奴に出会ったかもって報告だけ。
書いてて気付いたんですがこの時間軸だとまだ三年前ってことになるんですね。
晴架が二十歳ぐらいの話にしとけばよかったかな…でも今の視点で描きたかったのでこれでいいと思ってます。
サザエ時間だし、感じる時間の速さはリアルとは大分違うと思うんですよね(晴架も相当だけど夢芽とか…ね、うん…)

工藤のおっさんも麗さんも今時珍しいほどの早婚。
結婚生活が二年あったとしても、大体24くらいで結婚したことになりますね。すげー。

久々に滅茶苦茶幸せな晴秋が書きたかったんです。
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