シルドは自室に戻ると、昨晩より幾分か気持ちが軽くなっていることに気がついた。
 もう日は暮れ、すっかり夜になっていた。

 窓を開けると、ふわりと潮風が頬を撫ぜる。
 この初夏の風が、シルドは好きだった。
 窓枠に肘をかけ、軽く髪をかき上げる。

「…家、か…」
不意に思い出す。
 母、姉、父の4人家族。
 父は仕事で殆ど家にいなかったが、たまに帰ってきてはシルドに稽古をつけていた。
 毎日稽古と学問に明け暮れ、母と姉と3人で暮らす。
 普通の家とは同じではなかったけれども、それ自体は決して悪い暮らしではなかった。

「母ちゃんと姉ちゃん、元気にしてンのかな」
不意にぽつりと呟く。


 そのまま日は暮れ、シルドは軽い夕飯を取った。
 グルーとファレイの二人はまだバイトから戻っていなかったようで、カレイドも何処かへ出かけてしまっているようだった。

 シャワーを浴び、髪を軽くタオルで拭く。
 まだ寝るには少し早い時間であった。
 シルドは街で拾ってきた幾つかの求人広告を広げる。

「…此処と此処は…ああ、この前クビになったとこのチェーンだな…こっちは…っと社員は勘弁…」
ぶつぶつと呟きながら真剣に求人広告を見るも、なかなか条件の当てはまる場所が見つからない。

「此処なんか…良いんじゃねぇか?…時給…待遇…っと、悪くはねぇ、けど…」
「そこはいつ潰れるかわからないと評判の工場よ、やめておいた方が無難ではないかしら…」
「あ、そうなのか…じゃあパス…ってえええええええええ!?」
急に横から聞こえてきた声にシルドは声を張り上げ、思わず壁に後ずさる。
 黒いスカート、長い黒髪、黒い帽子。
 その姿は紛れも無く、昼に顔をあわせていたクレイアの姿であった。
 今来ましたと言わんばかりに窓枠にそっと腰掛けて座っている。

「…あの、クレイア?」
「今日、ちょっと泊めていただけるかしら」
「ちょっ…待、待て、…今更何でクレイアが此処に居るとかそういう野暮な事は聞かねぇけど…待って、俺の心臓が今の状況についていけてねぇから!」
シルドはずるずる腰掛けると、ハァハァと肩で息をし跳ね上がった心臓を何とか押さえようと片手をしっかりと胸元に当てた。

「…よし、…あー…クレイア、俺は此処に泊める事に何の文句もねぇっつーかむしろ大歓迎なんだけど」
「あなたならそう言うと思ったわ」
「…何故俺ン家?つーか何があった?」
クレイアはいつものポーカーフェイスで澄まして答える。

「さっき、あなたが帰る時に地震のような揺れがあったでしょう?」
「…ああ」
「あれが今回、ちょっと酷いみたいなの。…流石に、部屋に居れなくなってしまったから出てきたという訳」

 クレイアの話を要約するとこうなる。
 シルドの帰宅後、茶の後片付けをし、再び書架の整理に耽っていたところ再び地震のような揺れに見舞われた。
 震度も大きく、暫くは魔力で持ちこたえ部屋にものが散乱することや書架が倒れる事などは防ぐ事が出来たが、どうやら力に限界が来てしまったらしい。
 流石に身の危険を感じて一晩置いて様子を見ることにしたのであった。
 それにしてもクレイアが力の限界を感じるほどというのはどの程度のものなのか、シルドは考えただけで身震いがした。

「…で、何で俺の部屋に?」
「そうね…状況説明がしやすいから、かしら」
「…さいですか」
状況説明がしやすければ男の部屋に一晩泊まれるのかこの女は…と、シルドは思わず苦笑して息を吐いた。
 ふと、シルドは何かに気付いたかのように顔を上げる。
 クレイアは表情にこそ出さないものの、何処か顔色が悪かった。元々白いからそう見えることもあるが、今回は明らかに顔色が悪い。

「まぁ、…ちょっと座ってろよ」
シルドは立ち上がると、ボトルに入った紅茶を取り出す。カップに注ぐと、クレイアへと差し出した。
「有難う、…悪いわね」
クレイアは受け取ると茶を啜る。シルドも自分のを用意すると、軽く啜った。

 クレイアは帽子を脱ぎ、そっと床に置くと靴を脱ぎ、部屋に降り立った。
 靴はそのまま手の中で小さくなり、消える。

 黒いレースの靴下、ロングスカートの狭間から零れる素足のシルエットは、やたら色っぽく見えた。
 シルドは思わず視線を外し、茶を一気に飲み干すと話題を振る。

「…でもさ、それにしたって何で此処に?ティファとかメリッサとか、事情を説明すれば入れてくれると思うんだけど」
クレイアは壁に寄りかかったまま視線だけシルドの方へとやると、ああ、と小さく呟き

「そうね、メリッサさんのところはともかく…ティファさんなら入れてくれたかもしれない、わね」
と、徐に呟く。
 そもそもクレイアだったら何処かで一晩明かすことぐらい造作も無いはず。
 何故この部屋を選んで来たのか、シルドにとっては謎に包まれていた。

「…家族水入らず、って言うじゃない」
「あぁ…」
「あまり魔力も残ってなかったし、どこか室内で一晩休む事が出来ればよかったのだけれど…」
クレイアは一旦言葉を切ると、再び茶を啜る。

「…宿は落ち着かなくて好きでは無いし、かといって一晩どこかに籠もるくらいなら知り合いをあたったほうが良策でしょう?」
「まぁ…な」
「グルー君みたいに見るからに嫌がることが予想できる人は問題外だし、だからといってファレイ君を当たる気にもならないし」
シルドは再びチラとクレイアの方を見遣る。
 初夏だからか、多少軽装であるその格好は薄い麻のマントの下からは薄手の長袖が見える。
 クレイアは何かとでも言うように緩く小首を傾げて見せた。

(家族の居るところは水入らずで入りたくは無いし、宿は落ち着かなくて好きじゃなくて、誰か…むしろ男を頼ってくる…って…)
シルドは一通り聞いたことを心の中で復唱する。

(…その行動って、「気になった男の家に入り込む常套手段」じゃねぇ?)
思考がそこに行き着くとシルドは己の思考の不謹慎さに何処までも落ち込んだ。
「…シルド君?」
「いや…なんでもない」
だからといって男の家に入る奴があるか、と思わないことは無いのだけれども。
 目の前の相手に限って期待なんてしてはいけない。
 シルドは己の思考を何とか落ち着かせると、軽く息を吐いた。

「まぁ、私は一晩置いてくれるだけで結構よ。落ち着いて過ごすことの出来る場所さえあれば、それで構わないの」
シルドは軽く息を吐くと、おう、と頷いた。

 部屋に置いてあるのは、ベッドにテーブル、幾つかの棚。
 殺風景な部屋であるが、いつ女の子が入ってもいいようにある程度小奇麗にはしておく。それがシルドの妙なポリシーであった。

「つーかクレイア、ベッド使えよ。布団も毛布も今日干したばっかだからそれなりに綺麗だと思うし」
「遠慮するわ、あなたの寝る場所が無いでしょう?」
「心配すんなって、俺は床に――」
「遠慮するわ。…疲れているのだから、ちゃんと寝て頂戴」
シルドは思わず言葉に詰まる。今日クレイアに多少なりとも疲れている等を思わせる言葉を吐いてしまったことを後悔した。

「…いやでも、女の子を床に寝かせるのは俺のプライドが許さねぇんだよ!頼む、ベッドに寝てくれ」
そう頼む姿も、何とも情けないものかもしれないと口走った後に思ったが此処は後には引けない。
 クレイアは一瞬驚いたようにシルドを見ていたが、クスリと不敵な笑みを零した。

「何をそんなに必死になっているのかしら?」
「俺にとっては物凄ーく大事なことなんだよ、これは」
シルドは溜め息を吐くと、クレイアはわかったわ、と呟いた。

「それにしても」
「…ん?」
「あなたも変わってるわね、…急に押しかけてきたのに、私に全てを優先させて」
「当然だろ?クレイアさっきから顔色悪ィし…大丈夫なのか?」
シルドはクレイアの顔色を見遣る。先ほどよりは多少マシになったように見えるが、やはりまだ顔色はよくない。
 そもそもずっとフルパワーで目に見えない何かと戦っていたはず。
 限界を感じて出てきたのだから、疲れていないはずが無いのであった。
 その証拠に、クレイアは部屋に入ってから一切の魔法を使っていない。
 そんな彼女を邪険に扱う事などシルドの中には微塵も存在していなかったのだった。

「あら、顔に出てるかしら…私もまだまだね」
「疲れりゃ顔色悪くなンのは当たり前だって、…いいからもう寝ろよ。明かり細くするから」
シルドはランプの明かりを調節して細くする。大体、クレイアの自室の明かりがこれぐらいというところまで落とすと、室内は薄暗く落ち着いた雰囲気となった。
「…それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかしら」
心なしか、声もやや疲れているように聞こえる。クレイアはマントを外し丁寧に畳むと、着用しているのは薄手の長袖とスカートのみとなった。
 思えばこんな軽装なクレイアは初めて見たかもしれない。
 クレイアがベッドに横たわったのを確認すると、シルドはそっと空を眺めた。

(…クレイアのことだから、仮に夜這いかけたとして無事で居られるとは思えねぇし…今夜のところは大人しく…)
あえて空を見ながらそんなことを考えるも、流石に視線を向かないようにすることは酷な相談だった。
 ちらり、ベッドの方を見遣る。背中を向けている所為か、眠っているのかはわからない。
 自分も床で寝てしまおうかと考えたが、昼間寝てしまった所為かすぐ寝る気にはならなかった。
 否、それでなくともクレイアと同室で一晩、彼女本人にその気は無くとも据え膳を指を銜えて見ていなければいけない状況に陥った訳で。
 この状態で落ち着いて寝ることはシルドにとっては相当な困難を要するであろう。

「…クレイア?」
それとなく声を掛けてみる。返事は無い。

(…まさか、もう寝ちまったとか…?)
シルドが近付くと、クレイアは布団を肩までしっかりと被り瞼もしっかりと閉じられていた。
 不意に、「ンン…」と小さく言葉を上げ、寝返りを打つ。シルドはビクと一瞬心臓が跳ね上がったが、クレイアは寝返りで此方を向くだけに終わった。
 再び、規則正しい呼吸が始まる。
 シルドはそのままベッドの前に座り込み、クレイアの寝顔をそっと眺めた。
 長い睫毛、規則正しい寝息、穏やかな寝顔。その全てが、シルドには初めて見るものであった。

(かーわいい…こうやって見ると、まんま普通の女の子だよなぁ)
長い髪を頬に垂らし、無防備に寝息を立てるその姿は普段の毅然とした姿からは想像つかないものである。
 軽く口角を持ち上げ、声は出さないように小さく笑った。
 クレイアが気付かない事をいいことに、その寝顔を眺めながら好き勝手な事を考える。
 思わず触れてみたくなって、そっと伸ばしかけた手を寸でのところで引っ込めた。
(…っと…危ねぇ、クレイアのことだからな…触れたら電撃とか、そういう結界張ってるかもしれねぇ…つーか張ってるよな絶対…)
と、思い直せばシルドはベッドに寄りかかるようにしてクレイアから背を向けることにした。
 とく、とく…確かに感じる鼓動を落ち着かせようと、胸元に手をやる。
 相手がクレイアでなければ、自分はどうしていただろうか。

(つーかクレイアでもなければこんな生殺しなことしねぇだろうけどな…)
ハァ、と思わず溜め息が漏れると何処か気を張っている自分が馬鹿馬鹿しくなった。

 このままでは埒が明かない、寝よう、と立ち上がると洗面所で歯を磨く。
 部屋に戻ってくるとやはり目に付くのはクレイアの姿――それも、今度は上から眺めている所為か黒髪の間から覗くうなじがやたらと色っぽい。

(………)

 流石にこれは、男として何も感じないほうが間違いなのだと思う。
 シルドは再び先ほどのようにベッドに寄りかかるように腰掛けると、そっと手を伸ばした。
 電撃だけでは済まないかもしれない、もしかしたら地獄送りかもしれない。
 そんな縁起でも無い考えが過ぎるが、髪を撫でるぐらいなら許されてもいいだろうと。
 逆にこの場で己の身に何か起こったとしても、シルドは一切後悔しない確信があった。

 そっと髪に指が触れる。
 ふわり。
 意外にも、シルドの指には絹のような髪の感触があるだけで――他には何も、起こらなかった。

 そして、クレイアはそれに全く気付いていない様子である。
 瞼はしっかりと閉じられたままだし、繰り返される呼吸は均一なものだった。
(…嘘、だろ?)
こんなに無防備だとは思わなかった。
 流石に今夜は疲れているのだろうか。
 または、自分は触れることを許されているのか――

 シルドは壊れ物を扱うように気をつけながら、つつと髪の毛に指を通して撫ぜる。
 するり、髪が指先から零れる。
 再び手を頭へと触れるも、やはり何も起きなかった。
 そのまま、暫く髪を梳くように撫ぜる。
(凄ぇサラサラ…やっぱ手入れとかちゃんとしてるんだろうな、これ…)
すると、クレイアの両目が一瞬だけ、僅かに開いた。
「…っ!」
シルドは思わず手を離す。
 が、クレイアはもう一度瞼を閉じた。

(…あれ?)
一瞬、確かに目を覚ましたように見えたのは気のせいだろうか。
 否、目は覚めたが咄嗟に手を離したから気付かなかったのか。
 それでも自分が至近距離に居た事は気付いたはずだし、それで再び瞼を閉じたということは…?

 数々の思考が巡る中、シルドは恐る恐るもう一度クレイアに手を伸ばす。
 懲りない奴だと我ながら思うけれども。
 それでも、その心地よい感触に――触れていたかった。
(やっぱ絶対ぇあのワンピ似合うよな…着せてぇ、超着せてぇ)
不意に、そんなことが思い出される。
 真紅のドレスを纏った彼女の姿は、どれだけの魅力があるのだろうか。

 そっと触れると、再びすっと指が髪を撫ぜる。
 つつと指先が僅かに頬に触れた。

 刹那、再び僅かにクレイアの両目が開いた。
 今度は確かに、僅かに開かれた目で確かに此方を見ている。

「…っ!ごめ…」
シルドは咄嗟に手を離すと、クレイアは自身の手で軽く髪をかき上げる。
 クレイアの瞳は、薄青色。
 この瞳の色を、クレイアは何の魔法も使っていない時だということをシルドは知っていた。

「…何を、見ているのかしら」
クレイアが小さく言葉を紡ぐ。言葉尻は決して冷たいものではなく、声は若干掠れていた。
「え、…あ…いや、その何だ」
シルドは思わず取り繕う言葉を探す。
 触れられていた事には、気付いていたのだろうか。

「…クレイアの寝顔、見てた」
思わず口から出てきた言葉の間抜けさに、シルドは思わず頭を抱えたくなった。

「そんなに見ていて面白い?」
絶えず至近距離にあるその顔で、クレイアはぽつりと呟く。
「いや、…面白いとかそういうんじゃなくてだな」
弱いランプの明かりで、ぼんやりと浮かび上がっているその顔。
 シルドはそっと手を伸ばすと、クレイアが起きていることを構わずに髪を撫で始めた。
 クレイアはそっと目を細めるも、抵抗はしない。

「…何かしら」
「抵抗しねぇんだな」
「…くすぐったいわね…」
「クレイアの髪って凄ぇサラサラなのな。両親どっち似?」
「人の話を聞いているのかしら…んっ、…母似、よ」
クレイアは擽ったそうに小さく声を上げ肩を竦める。シルドはそっとその黒髪を少し手の中にとると
「へえ、…綺麗なんだろうな、クレイアのお袋さん」
「そうね、…世間一般的には、綺麗とされるのではないかしら」
クレイアは擽りから解放されると、いつものポーカーフェイスで淡々と語った。
 それでもなお、離れる様子は無く。シルドをじぃと見つめて言葉を紡ぐ。
 シルドはそっと手にしたクレイアの髪を返すとそのまま再び軽く頭を撫でる。

「クレイア綺麗だしな、納得した」
「…此処で顔は父似だと言ったら如何するのかしら」
「そうだな、親父さんも相当ないい男なんだろうな」
シルドはいつもの調子で返すと、クレイアは小さく笑った。

「…もう少し、寝るわ」
「ああ、…起こしちまって悪かったな」
シルドが手を離すと、クレイアは小さく呟くように

「…離してしまうのね」
「え」
シルドは思わず言葉を切るが、クレイアはそのまま布団を被り反対側へと向いてしまった。

「…おやすみなさい」
「あ、…ああ、おやすみ」
シルドは一瞬聞こえた言葉を空耳と解釈しようとした、その時――

「シルド君」
「…ん?」
後ろを向いたままのクレイアが、一言言葉を発した。

「私が」
「…え」
「…指一本も触れさせたくない男の部屋に、こうして泊まりに来るとでも?」
クレイアはそれだけ呟くとそのまま、沈黙が流れる。

(…今の言葉、って)
突如早鐘のように心臓が波打つ。
 正直、シルドの脳内では既に処理不能になっていた。
 その言葉の意味を如何捉えればいいのか、果たして都合のいいように捉えてしまってもいいものか。
 しかし、此処から先に踏み込んでしまうのは躊躇われた。

 彼女はそれを望んでいないかもしれない。
 彼女との関係を壊したくない。

 今更、かもしれない。
 頭ではわかっているのだ。
 シルドは、クレイアの髪を再びそっと撫ぜると、耳に掛かっている横紙をふわり、と耳の後ろに流す。
 同時に、首筋とうなじのラインが綺麗に映えた。
 横顔は、既に眠ってしまっているようにも見える。

 今更だとわかっているけれども。
 それでも、何かの感情がそれを阻む。
 欲情のままに動いてはならないと、理性がそれを阻むのだ。

 シルドはそっと顔を近づけると――
 彼女の首筋に、そっと触れるだけのキスをした。


「…おやすみ、クレイア」
シルドは立ち上がると、部屋の一番遠くの角に腰掛ける。
 本来旅をしていた頃に使っていた寝袋が、此処に来て役に立った。
















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