そして、また朝を迎える。
 朝には頭痛は引き、いつもどおりの生活となっていた。
 三人分の朝食を作り、三人で朝食をとると各々の生活になる。
 今日の朝はこれといって不自由は無く、いつもどおりの朝を過ごした。
 しかし、小さな八重歯はそのまま残ったままであった。

 ファレイはいつもどおり図書館へと向かい、仕事を始めた。
 貸し出しカウンターで返却された本の整理をする。
「…あ、あの、これ…」
「ああ、ミリーか。ええと、返却ね」
「は、はい…お願いします…」
そう呟くとミリーはそそくさとカウンターを後にする。「種族全集」のその表紙を見ると、何やら複雑な気分に襲われた。
 徐に、その表紙を開く。目次に、見慣れた言葉が並んでいた。
 ページを進めようと手を添えると、不意にカウンターから影が差した。ファレイはそっと顔を上げる。
「ファレイさんっ、こんにちはぁ」
「ああ…リリーメ、もうちょっと声、小さくな」
「あ…ごめんなさい、これ返却で。こっちが私ので、こっちが姉貴のなんだけど」
「ああ、わかっ…」
受け取ろうと片手を差し出すと、急に目の前の景色が二重に重なった。
 どくん、心臓が強く波打つ。
「ファレイさん?」
「あ…ごめんね」
ファレイは何事も無かったかのように装うと、そのまま本を受け取る。
 逸る鼓動は、何とか収まるも――視界に若干の霞が残った。

 そのまま何とか一日の仕事を終える。
 同僚と一緒に図書館を閉める作業を行っていると――同僚がファレイに声をかけた。

「ファレイさん」
「ん…?」
「これ、あっちの棚に入ってましたよ」
同僚が一冊の本を差し出す。
「え、…ああ、ごめん。間違えた」
「どうしたんですか?ファレイさん今日顔色悪いですよ」
ファレイはなんでもないよ、と苦笑するとその本を正しい場所へと戻し、勤務を終了させた。
 そっと眼鏡を掛けると、外へと一歩歩く。

「…グルー」
「ファレイ…バイト帰りか」
「ああ、…一緒に帰らないか?」
グルーのバイト先の雑貨屋からフィッシュ館へ戻るには図書館を通る。丁度図書館を出たところで、ファレイはグルーと行き合った。

「…ファレイ」
「ん…?」
「顔、真っ青だぞ」
そう言われると、ファレイはそっと苦笑する。
「本当に?…今日、同僚にも言われたんだよ」
「…珍しいな…昨日も顔色真っ青で部屋に入ってくのを見たんだが」
「ああ、見てたのか。まぁ、少し寝不足なだけで――」
と、言いかけた刹那――急に脳天に激痛が走った。
 米神を押さえ、しゃがみ込む。
「――っ!!」
「っ!?おい…ファレイ!?」
「…っ…悪い、…大丈夫……大丈夫だ」
ファレイはふらりと米神を押さえたまま立ち上がる。グルーはファレイの顔を見遣ると
「…全然大丈夫なようには見えねぇよ、病院に…」
「病院は駄目、…悪いグルー、ちょっと肩貸して」
ファレイはそうはっきりと言い放つと、グルーは無言でファレイを抱えるように肩を貸す。

「…後で説明する…から、…ちょっとこのまま、クレイアのとこ…連れてってくれないか?」
「は?…ああ、わかった」
グルーは予期せぬ言葉に訳もわからぬ様子で、ファレイに肩を貸したまま高台の公園の入り口まで歩いた。幸い図書館からは大分近い場所である。
 と、そこでふわりと何かが現れる気配をグルーは感じた。

「…クレイア、ちょっと手伝ってくれ」
「お安い御用。二人とも、少し目を閉じていて頂戴」
グルーが呟くと、クレイアは姿を現し二人を自身の家の中へと誘った。





「…こんにちは」
「あ、ディーン!ちょっとこっちに来てちょうだい」
ある日、セルビアはディーンが来るなりその手を引いた。
 そして、ディーンをソファに腰掛けさせるとそっとその顔に手を伸ばす。
「…!?」
「目を閉じてちょうだい」
ディーンは言われるままに目をとじると、すっと鼻先と米神に何か冷たいものが当たった。
「いいわ、目を開けて」
ふ、と目を開ける。そこにあるのはいつもと同じ世界だった。
 セルビアはそのまま背を向けると、虫かごのような小さな籠を持って戻ってくる。
 中には小さな鼠がいた。それをディーンの目の前に置くと、セルビアは後ろから、ディーンの前髪を持ち上げる。

「っ!」
「そのまま、この子を見つめてみてちょうだい」
「え…でも」
「いいから、…大丈夫」
セルビアに言われるまま、ディーンはそっと、その鼠を眺めた。
 鼠はちょろちょろと籠の中を動き回っている。籠を伝って上を見上げると、確かにディーンと目が合った。
 ディーンは構わず見つめる、が、鼠はそのまま動き回っていた。

「…!」
ディーンは思わず自分の目元に手を伸ばす。すっと、冷たく硬い感触が指に触れた。
 触れるまで全く気が付かなかったが、己の視界と瞳の間に一枚のガラスが隔てている。
 それは銀のフレームで繋がれていて、それを摘むとディーンは漸くその存在を理解した。
「私なりに考えてみたの、まず何が出来るかって。あなたが今かけているのは、力封じの眼鏡。メデューサの書物を片っ端から調べて、何とか試作品として完成させたのよ」
鼠は生きたまま、セルビアの手によってそっと元の小屋に戻された。

「殺さずに済むだけでも、随分世界は変わって見えるでしょ?」
セルビアがそう言って振り向くと、ディーンは思い切りセルビアを抱きしめた。
 セルビアは驚いたように身を硬くするも、両腕をその背中にそっと回す。

「ありがとう…」
「…いいえ、あなたにできるせめてもの恩返しよ」
セルビアはその腕に甘えるように、ディーンに擦り寄った。
「恩返し…って、俺は何も…」
「いいえ、何度も私を助けてくれたわ」
「それくらい…」
「私にはとても大きなことなの。…素直に受け取ってちょうだい、ね?」
そう言って笑顔を向ける。その言葉を聞くと、ディーンは俯くように一度頷き再びセルビアを抱きしめた。

「…ありがとう」




「…ファレイは?」
「奥の来客用ベッドに寝かせてあるわ。一応鎮静剤を打ったから、あと少しは眠っていられるはずよ」
「そう…か」
クレイアは紅茶を淹れると、グルーの前に出した。
「…あいつは…」
グルーが呟く。クレイアは一人がけの椅子に腰掛け、己の分の紅茶を啜ると
「私からは何も言えないわ、…ただ…彼が苦しんでいるものは、普通の病とは違う――すぐにどうこうできるものではない」
「…」
「当然、彼の苦しみは医者でも癒せない――彼を救う策はいくつかあるけれど、最善の策は…彼の望まない方法を実行する事」
クレイアはそこで言葉を切った。グルーは無言で茶を啜ると立ち上がる。
「…今日は帰る」
「そうね…ひとまずファレイ君が目を覚ますまでは、手の施しようが無いから」
そう呟くと、クレイアはグルーを見送ろうと立ち上がる。

「…グルー君」
「何だ?」
「あなたは――…いえ」
クレイアは一言言いかけて、背後に一度目配せすると言葉を切る。
 グルーが不思議そうにクレイアを見遣ると、その後ろから声がした。
「…ちょっと、待ってくれないか。グルー」
「ファレイ…お前、寝て…」
そこにあるのは、ベッドで寝ているはずのファレイの姿であった。壁に寄りかかりながら立ってはいるものの、まだ多少顔色は悪い。
「少し良くなったよ、…外で少し、話をさせてくれないか」
「…俺は構わんが…」
「それじゃあ…ファレイ君。話が終わったら、今日は帰らずにこっちに帰ってくること。それだけは約束して頂戴」
クレイアはしっかり釘を刺すと、ファレイは軽く苦笑いした。
「…大丈夫、わかってるって」

「…クレイア、さっきの話は――」
「いいの、忘れて頂戴」
そう言うと、グルーとファレイは魔法陣の光に包まれて外へと出た。


「…悪いな、迷惑掛けて」
「別に…」
そう呟くと、二人はメリッサの土地を離れ高台の公園まで移動する。
 公園の芝生に腰掛けると、グルーが口を開いた。

「ファレイ、…お前は…」
「メデューサ、って知ってるか」
ファレイはグルーの言葉を遮るように言葉を紡ぐ。
 グルーは多少戸惑った様子を見せるも、一度頷いた。
「…ああ、目を合わせただけで生物を石にしちまうっていう、…もう絶滅しちまった種族――」
「歴史上ではね。俺、それの末裔なんだよ」
ファレイが口にすると、グルーは驚いたようにファレイを見返す。
「…驚いた?」
「当然だろ…」
「でも、今は違う…といっても、今はメデューサの部分が残った人間、って形かな」
ファレイがあっさりと口にすると、グルーはそのままファレイを見遣った。
 銀色の髪、銀色の瞳、それに透明な眼鏡。
 赤紫のメッシュは、確かに歴史上のメデューサを思わせるその色であるけれども――
 それが本当にメデューサであるなんて、考えたことも無かった。

「年齢も、実はずっと嘘ついてた。22って言うのは、俺がこの街に来て生き始めた年数」
「…」
ファレイは高台から街を見下ろすように呟く。

「その昔、俺は完璧なメデューサだったんだ。ちょっと色々あって、今の姿になったんだけど」
「…」
「月が出ると、メデューサの血は活発になる。今年は月神の年で、今は丁度月が綺麗な時期だからね…それで今、半分以上は人間の俺は不安定になってるというわけ」
ファレイが淡々と語ると、グルーは思わず呟く。

「…それでも、お前は今まで…普通の人間として生活できてたじゃねぇか」
「そうでもないんだよ、夜は眼鏡を掛けないとメデューサの力が再発してしまう危険があったし、メデューサの血が活発になってしまうお陰で、眼鏡と自分のバランスも崩れてきてる」
ファレイはそっと眼鏡を持ち上げると、僅かに口角を持ち上げる。
 その笑いが、グルーには何処か自嘲的に見えた。

「このままでは、俺はメデューサの意識に侵食されてしまって――もしかすると、正常な理性を失ってしまうかもしれない」
「…」
「俺が助かる方法は――完全に人間になるか、または完全にメデューサに戻るか…」
そう呟くと、ファレイは立ち上がる。グルーも一緒に立ち上がった。

「どうするんだ…?」
「そうだな…完全に人間になるということと、完全にメデューサに戻るという事はリスクの大きさが違う。俺と…魔法をかけるクレイアにかかるリスクを考えたら、俺は完全にメデューサに戻った方がいいんだよ」
ファレイは数歩歩む。グルーはそれにつくように歩いた。
「どっちにしろ、それは俺一人で何とかできるものではないから…今言ったけど、クレイアの助けを借りないといけないんだ」
「…クレイアか…」
「そう、…クレイアにお姉さんがいたこと、グルーは知ってるか?」
ファレイの足が止まった。同時にグルーも歩調を緩め、ファレイの横で止まる。
「…セルビア、か?」
そう呟くと、グルーはファレイを見返す。その表情は、驚くほど穏やかなものであった。
「ああ…よく知ってるね。俺の恋人だったんだ」
「っ…?」
あまりにもさらりとした言葉に、グルーは目を見開くと言葉を失う。
「生前、俺にとても尽くしてくれて――そうだな、この眼鏡を作ってくれたのも、そのセルビアなんだ」
ファレイは微笑む。グルーは軽く髪をかき混ぜるようにかき上げた。
「クレイアは俺に魔法を掛ける事を承知しているよ。二択の選択を迫ったのも、そもそもはクレイアだから」
「そうか…」
するとファレイは元の魔法陣のほうへと歩き出す。

「…引き止めて悪かったな、今日はありがとう」
「別に…」
「それじゃ」
「ファレイ」
グルーが一言引き止めると、ファレイは振り返った。

「…何だ?」
「一つ…聞きたいんだが」
そう言うと、グルーはファレイを真っ直ぐ見つめる。

「お前は…どうしたいんだ?」
「俺…?」
「メデューサに戻りたいのか、…それとも…完全に、人になりたいのか」
グルーははっきりと言葉を紡ぐと、ファレイは「そうだな…」と呟き考えるように口元に手を添える。

「完全に人間になれるのなら、これ以上いいことは無い…な」
「…なら…」
「グルー」
ファレイはグルーの言葉を遮るように言葉を発した。

「…セルビアが何故死んだのか…知ってるか?」
「いや…詳しいことは…」
「彼女は…」
ファレイが続く言葉を紡ぐと、グルーは目を見開いた。
 それ以上、言葉が出なかった。

「…じゃあな、今日はありがとう」
ファレイは軽く手を振り、魔法陣のほうへと歩み――消えた。
 グルーはそのまま踵を返すと、帰路を歩み始めた。

 そのまま向かった先は――ティファの家であった。

 扉をノックすると、ティファが扉の隙間から顔を出す。その姿を見ると、やたら安堵した。
「…あれ、グルーさん?どうしたんですか?」
ティファはそう問いかけると、グルーは呟く。

「少し…」
「え…?」
「邪魔しても良いか?」
「あ…構いませんよ、グルーさんお夕飯まだですよね?一緒にいかがですか?」
ティファはいつものように屈託の無い笑顔を向ける。グルーは頷くと、中へと招き入れられる。

「あ!お兄ちゃんだ!」
「グルーお兄ちゃんっ、こんばんわぁ」
「…グルー…」
小さい子供が五人ほど、その中にグルーの従姉妹にあたる少女、マリーの姿もある。
 グルーは適当に挨拶をするとその中の一つの席に腰掛、夕食を共にした。

 子供達を寝かしつけると、ティファはグルーにどうぞ、と紅茶を出した。
 その隣へ、ちょこんと腰掛ける。アールグレイの香りが、室内にそっと広がった。

「…何だかんだ居座っちまって悪かったな、もう帰る」
「構いませんよ、皆もグルーさんが来ると喜びますし」
一緒に紅茶を飲むと、ティファははにかむように笑う。
「でも、…今日はどうしたんですか?」
「ああ…ちょっとな」
「あ、答えづらいことなら別に――ただ、今日のグルーさん…ちょっと元気ないですよ」
ティファはグルーを見上げると、前髪を撫でるように手を伸ばす。
 グルーは目を閉じて俯くと、
「そうか…?」
「ええ」
「…敵わねぇな、お前には」
「…え?」
と、呟くや否やグルーはティファにそっと寄りかかる。

「グルーさんっ…?」
「悪い、…少し、参ってるみてぇだ…」
そう呟くと、ティファはそっと、グルーの頭を抱くように優しく撫でた。
 グルーの声が、とても寂しげに聞こえた。

「…俺はつくづく、友人には縁が無いらしい」













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