ゆらりゆらりと、生ぬるい水流を流されていくような感覚に襲われていた。
不思議に身体に痛みは無く、自分がいるところがどこかもわからなかった。
「――…ここは…」
あたりを見回すも、そこは薄青色の濃霧の中のような、何処とも取れない場所。
まるで雲の中に入ってしまったかのような錯覚にとらわれながら、ファレイはそっと己の身体を見下ろした。
己の身体が、無かった。
そっと両手を上げてたしかめようとも、そこに手は無く。
「…死んだ、のか?」
自問自答の声だけが響く。
立ち上がろうにも、足も無い。
しかし意識は、その場所から動く事が出来た。
とは言えど、周囲は濃霧。
何も見えず、何も聞こえなかった。
「死んだ…んだよな」
自分にそう言い聞かせるも、何処に行く宛てもない。
ファレイはそのまま、その場に留まる事にした。
すると、何処からとも鳴く声が聞こえた。
『…か、ばか、馬鹿ーっ!!』
甲高い声が耳をつんざくようであった。ファレイは実際はそこには無い耳を塞ぐように声の主を探す。
『ディーンの馬鹿っ、あれほど、あれほど私がゆったのにっ…!』
「…セルビア…?」
『くぅちゃんの魔法完璧だったのよっ、それを…それを失敗するかもしれないからーって、…ディーンのばかぁ!』
ばちん、と何かにはたかれた感触がした。が、痛いという感触は無い。
「セルビア…ここは…何処なんだ?」
『知るもんですかっ、自分から進んで馬鹿やっちゃう子には教えてあげなーい』
「…セルビア…」
『ディーン、…』
それきり、声は静かになる。ファレイはもう一度、セルビアの名を呼んだ。
ふと、しゃくり上げる息遣いのみが――ファレイの耳に入ってきた。
「泣いてるのか…?」
『…っ…ごめんなさい…』
「えっ…?」
その涙を拭おうにも手を伸ばせない。
その涙さえ、セルビアの姿さえ見えない。
けれど目の前にはセルビアがいる、ファレイはそう感じていた。
『…ディーン』
「ん…?」
『あなたがここで死んでしまったら…くぅちゃんは幸せにはなれないわ』
思わず言葉に詰まる。
『ずっとずっと、傍で見守り続けてきたのに…あなたを救う事が出来なかった、ってずっと…この先もずっと、くぅちゃんは自分を責め続けると思うの』
「…」
『あの子はそういう子だわ、…だから…ディーン、あなたは生きてなくちゃだめ』
言葉尻が強くなる。
ふと、ファレイに笑いがこみ上げてきた。そのままくすくすと笑い始める。
『な…何っ?何を笑ってるの、ディーン』
「だって、…久し振りに恋人と話をしてるって言うのに…セルビアと来たら、クレイアのことばかりなんだからな」
『あら、やきもち?やだ、ディーンにもそんな可愛いところがあったのねっ』
二人で暫く笑い続ける。ファレイは、己の姿を再び見下ろした。
相変わらず、そこには手も足も無い。
『…私、あなたには生きて欲しいわ。私の分まで、…幸せになって欲しいの』
そっと頬を撫でられた気がした。
「と言っても、俺はもう…」
『大丈夫、…あなたが帰りたいと思ったら…帰れるわ。あなたはまだ、死んではいないのだもの』
「え…?」
すると、目の前がぱぁと明るくなった。
真っ白い光に飲み込まれるように、何も見えなくなっていく。
「セルビアっ…!」
『私は、あなたの中でずっと生きていたのよ。…勿論、これからもずっと。あなたが死なない限りはねっ』
その声が、だんだんと遠くなっていった。
だんだんと、己の身体が重みを取り戻していく。
そこでファレイは目を覚ました。
霞む視界に真っ先に目に入ってきたのは、クレイアとグルーの姿であった。
「…クレイア…グルー…?」
「よかった…」
「…」
「何で…」
そっと身体を起こす。ここ数日襲っていた頭の痛みは、自然と消えていた。
そこでベッドに横たわっていた事に気付く。そこは、来客用ベッドの上であった。
グルーは何も言わず、俯いていたが――そこで初めて口を開いた。
「…嫌な予感がして来てみれば、クレイアとお前が奥の部屋で倒れてやがったんだ」
「え…」
「クレイアはすぐに気が付いたが…お前は三日間、ずっと寝っぱなしだった…」
グルーは立ち上がると、震える拳をそっと持ち上げファレイの頬を殴りつけた。ファレイはベッドの上に跳ね飛ばされる。
頬にめりと食い込む感触と、口内を苦い鉄の味が滲む。
ファレイは再びベッドに横たわる体制になると、グルーを見上げ呆然とした。
その胸倉を、グルーが掴む。その顔はいつものやや眉を顰めた表情であったが――静かな怒りを放っていた。
「…馬鹿じゃねぇのか、貴様は…」
「…」
「置いていかれる奴の気持ちを…考えた事があるのかよ、この自己中が」
そう吐き捨てるように呟くと、手を離す。ファレイの身体がどさ、と落ちた。そのままグルーは背を向ける。
その背中が――とても寂しげに見えた。
「…とにかく、お互い無事でよかったわ」
クレイアが一切触れずに呟く。
「クレイア…」
「…あなたが今の身体になって、私が何もしてこなかったとでも思うの?」
「…」
ファレイは思わず押し黙る。
「そりゃあ、まだあの魔法には曖昧な部分も多かったし…今回の魔法は、私も流石に覚悟したわ。…結果的には成功していたというのに、あなたという人は…」
クレイアは完全に説教口調になりながらもはぁ、と溜め息を吐く。ファレイは思わずきょとんとした表情を浮かべた。
「まだ状況が飲み込めないようね、…どうぞ」
クレイアはそう言うと黒い手鏡を差し出す。
「…見て頂戴」
ファレイはその言葉にはっとしたように受け取ると、自分をそれに映した。
そこには前髪に僅かに残っていた赤紫は消え、八重歯も完全に無くなった、
極普通の青年の姿が映っていた。
「…俺は…」
「一応、成功ということになるわね」
クレイアが淡々と語るも、実感が湧かなかった。
そっと、手で顔に触れる。と、何かの違和感に気付き顔を上げた。
「そうだ、クレイア。眼鏡は…」
「眼鏡…あれは…」
クレイアは棚の上に乗っていた小さな布の包みを取ると、静かに広げる。
そこには粉々になった硝子――元は眼鏡であったのであろう破片が一面に広がっていた。
「え…」
「魔法に巻き込まれたのでも、落として割れた様子でもないのよ」
ファレイはそっと手を伸ばすと、破片の一つを手に取った。
そこから何かが、ファレイの中に流れ込むのを感じた。
硝子の破片を、光にそっと透かす。
「…俺、セルビアに逢ったんだ」
「え…」
「きっと、…セルビアが…守ってくれたんだと思う」
「…ファレイ…?」
その目から、すっと一筋の涙が零れ落ちていた。
「俺は…また、セルビアに助けられたんだ…」
魔法は完璧であった。
極論となるが、不完全であったものを完全にするだけなのである。
それは言葉にする事は簡単でも確かに膨大なリスクを伴うが、全くのメデューサを人間にすることと、半人間を完全な人間にすることでは危険度の度合いが違っていた。
当然、前者の方が危険を伴う。
「…グルー」
「…」
一歩先をすたすたと歩くグルーをファレイが追いかけるように歩く。
元々ファレイのほうが長身であるが故、ある程度のペースで歩く事自体に支障は無かった。
グルーは、ファレイを殴りつけて以来一切口を開いていない。
「まだ怒ってるのか?」
「…」
グルーは高台の公園の手前で、ふと立ち止まる。ファレイも合わせて足を止めた。
「…悪かったな」
「え…」
「いきなり殴りつけて」
ファレイはそれを聞くと、ああ、と一度呟く。
「…構わないよ、俺も悪かったから」
「…全くだ」
「それ、言葉矛盾してないか?」
軽く口角を持ち上げて返す。グルーはああ、と否定もせずに呟くとそのまま街を見下ろすように目を向けた。
「昔、一緒にパーティ組んでた奴がいた」
「…?」
「チビの頃からつるんでて、一緒に修行して――同い年の癖して妙に兄貴面したがる奴で」
「…」
「意味わかんねぇことでしょっちゅう俺に説教垂れてきやがる奴だった」
グルーは何処か遠くを見つめながら淡々と語る。
ファレイは、口を開くことなくその言葉を聞いていた。
「けど、――頼りになる奴だった」
一陣の風が吹く。グルーの言葉はそこで切れた。
「…そいつは、今は?」
ファレイが伺うように口にする。グルーは一切様子を変えずに返した。
「知らねぇ」
「…」
「生きてるのか死んでるのかすら。…旅先の火事の中に飛び込んでいって、そのまま行方不明だ」
ファレイは理解した。グルーがファレイを殴りつけた理由を。
そっと己の頬に触れた。まだ少しひりひりと痛む。
多くの戦いや人との別れを経験してきたであろうこの男は、別れの側面には強い人間だと思っていた。
ティファを大切にしていることは目に見えて明らかであるが、男である自分相手にそう大きな感情を抱くような人間ではないとファレイは思っていた。
しかしきっとこの男は、数多として別れを経験していても――それでも、仲間を大切に想わずにはいられない、そんな男なのだろう。
(若い――な)
ファレイは思わず心の中でそう呟いた。
「…帰るぞ」
「ああ」
しかしそれを、あえて口に出すことはしなかった。
ファレイは再びグルーについて歩き出す。
「…結局、また今までどおりバイト生活か?」
「ああ、…でも、もっと安定して働ける仕事を探すよ。俺はこの地で暮らすって…そう決めたから」
高台の階段を下りながら、ファレイは決意したように呟く。
「未だに事情を把握し切れてないんだが…クレイアは…」
「…俺、クレイアにはもうこの土地に留まる必要は無いって言ったんだ。俺は当面の心配は無いだろうし、何かあったとしても人間の医学で解決できるかそうでないか…または、この先は何かあったとしてもクレイア自身にもどうこうできるレベルじゃなくなってくると思うから」
ファレイが紡ぐ。時間は既に昼を越え、日は大分高かった。
「けど、やっぱりまだ此処にいるって。俺の身体がこれからどう変化していくのかもわからないし、それに――」
「…?」
「きっと何より、恋人を“待っていたい”んだろうね」
ファレイは呟くと、立ち止まったグルーより先を歩く。
グルーはその後を追うように歩いた。
「…わかんねぇな、女ってのは」
「そうだね、俺もよくわかんないや」
ファレイは同調すると、頷いて軽く髪をかき上げる。陽の光に、セルビアの靡く金髪を思い出した。
銀色の髪が、風にさらさらと揺れる。
「…というわけだから」
「…?」
「まだ当分、よろしくな。グルー」
軽く拳を握る。
グルーは一瞬、口角を持ち上げるとその拳に自分のそれをこつり、と当てた。
「――おう」
空は高く、秋の色を見せ始めていた。
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