今夜で最後。
 彼がそう決意するまで、そう長くない事は知っていた。

 けれど、あまりに結論を出すのが早すぎではないか。

 思ったけれども、言わなかった。
 言えるはずなど無い。
 彼にとってはそれが一番いいことだから。
 彼がそう決めた事だから。

 頭に、まだ撫でられた感触が残っている。


 自室まで戻ってくると、クレイアはシルドに手渡された紙袋を両手に、自分の寝室まで歩いた。
 数歩歩いた先にある扉、其処がクレイアの寝室であった。
 しっかりと施錠されていて、クレイア自身が唱える呪文か“鍵”となるものが無い限り――鍵は開かないようになっていた。

 クレイアは開錠の呪文を唱えると、扉を開けて部屋へと入る。
 此処は自分が一番、無防備で居られる部屋であった。
 いつもの自室と変わらない、茶を基調とした室内。
 本棚が一つと、ドレッサーが一つ。
 壁には、幾つかの自前のローブやスカートがハンガーに掛けられている。
 奥にはシンプルなシングルベッドが置いてあった。

 クレイアはベッドに腰掛けると、そのままばたん、と倒れこんだ。

 ――逃げてしまった。

 自覚するのは、思わず己がとった行動。
 彼は、自分を好いてくれていると。
 そう、告げてくれていたのに。

 怖かった。
 まだ自分には、それを受け入れるのは怖かった。

 胸が、ちくちくと刺すように痛む。

「――…痛いわ」
思わず小さく口に出す。
 最悪だ。
 よりにもよって、こんな形で終わりを迎えてしまうなんて。
 思えば思うほど、後悔と、彼の姿が目に浮かぶ。

 明日になったら、彼はいなくなってしまうというのに。

 自分にとって、彼の存在は其処まで大きなものであったのか。
 否、そうではなかったはずなのに。

 今までだって、去り行く人沢山の人を見送ってきた。
 数々の人を看取ったこともある。
 自分は、人の何倍もの時を生きる事になるから。
 否、もう既に――何倍もの時を生きてきたから。

 何故、一人の人間が街を離れるというだけで――こんなにも、こんなにも。
 心はかき乱され、自覚してしまった恋愛感情は行き場も無く胸を刺すばかり。

『忘れて頂戴』
そう言ったのも、まだ自身の恋愛感情を受け入れる余地が無かったから。
 彼は自分を忘れてしまっていると思えば、彼が居なくなったとしても何とかやっていけるだろうと。
 痛手は負わなくて済むだろうと解釈した結果であった。
 浅はかであったかもしれない、しかしそれしか思い浮かばなかった。

 結果として、彼から想いを告白されるなんて思いもせずに。

 自分の気持ちがわからない。
 彼の言葉が嘘でない事ぐらい、自分にはわかっている。
 わかっているからこそ、嘘だと思いたかった。

 それが真実だと認めてしまっても、彼は遠くへ行ってしまう。
 どちらにせよ、引き離されてしまうのに。

『俺は、…俺は、クレイアが好きだ。だから忘れる事なんて出来ない』
…どうして、嘘だなんて言ってしまったのだろうか。

 本当はとても、…とても、嬉しかったはずなのに。
 それを受け入れてしまう事が、たまらなく怖かった。

 不意に、足元にバサ…と白い紙袋が落ちた。
 クレイアはふらりと起き上がると、それがシルドに渡されたものだと気付く。

 クレイアはそれを手に取ると、そっと包みを開き始めた。
 思えばこれの中身は何なのだろう。
 彼が自分に何か目に見えるものを贈ってきたのは――初めて、ではないけれども。

 かさかさかさ。
 紙袋から出し、白い包みを、丁寧に剥がす。
 すると、目を刺すような鮮やかな紅の色が見えてきた。

「…これは…?」
最後の紙を、そっと剥がす。

 刹那、クレイアはそれを思い切り抱きしめた。
 胸中に、何かが溢れ出すのを感じた。
 これ以上せき止めることは出来ないのだと――悟った。

 ――逢いたい。
 先ほど別れたばかりだというのに。
 断ち切ったのは他ならぬ自分自身であるのに。

 クレイアは一つの決断をした。
 もしかしたら、遅すぎる決断だったのかもしれない。
 が、過ぎてしまった時を悔やんだところで仕方が無い。

 クレイアは、それを胸に抱いて――夜明けを待った。


* *


 日付が変わろうかという頃、カレイドは今日の出来事を一頻り思い返していた。

 危ないところだった。
 一瞬脳天に走った衝撃、其れは間違いなくホープが当てたものであろう。
 彼女だって24時間見張っているわけでは無いであろうが、自分が彼女に何らかの魔法を掛けられているのはそれとなく感じていた。
 恐らく、何かキーワードや行動が合致すると発動する形の軽い仕掛けのような魔法が――
 あれ以上の言葉を発してしまうと、己の身に何かが起こるようになっているに違いない。
 また、目の前に居た何の罪も無い友人を――傷つけてしまうことになることにもなりかねない。

 ホープが手段を選ばないであろうことを、カレイドは薄々感じ取っていた。

「…相談するまでもないこと、ってこと…か…」
カレイドは一日の報告レポートをいつもどおり済ませると、自嘲気味に溜め息を吐く。
 基本的に彼女の魔力では、彼女自身が眠っている間まで自分を拘束することはできないだろうけれども。
 油断は禁物だが其処は彼女と同級であり感じ取ったある程度の確信があった。

 と、こんこん、と寮の部屋を誰かがノックする音が部屋に響いた。

「はい…?」
カレイドは扉の方へと歩くと、外に向かって声をかけた。

「…カレイド、俺だ、シルド」
「え、…?シルド、さん?」
思わぬ人物の来訪に、思わず声が上擦る。
 シルドが自室を訪れる事など、珍しいことでは無いし、驚くほどの出来事でもないのだが。

「…どうされました、か?」
カレイドはそっと扉を開けると、シルドを見上げる。
「夜中悪ィな、ちょっと邪魔すンぞ」
「ああ…はい、どうぞ」
カレイドはシルドを自室へと通す。
 シルドはおう、と返事を返すと部屋へと足を踏み入れた。
 そのままいつも、カレイドの部屋で食事をとる時の自分の定位置に腰掛けた。

「早速なんだけど…ああ、茶は要らないから…座ってくれ」
「あ、…はい」
シルドは茶の準備を始めたカレイドを止め、己の目の前――カレイドの定位置に座らせた。

「…唐突なんだが、明日実家に帰ることになった」
「え…」
「いや、…帰ることに、した」
カレイドは驚きの方を隠せなかった。
 自分の見ている範囲内では、シルドにまだ自発的に帰るような思考が芽生えたようには見えていなかった。
 此処数日間に、何かが起こったのだろうか――
 それとも、まだ自分には『身分を明かしていないと自覚している』シルドが、嘘を吐いて街を出て姿を眩ます気なのか――
 カレイドの脳内に幾つもの思考が過ぎる。

「…お前に頼みがある」
「…」
「俺に、…たまには、街の様子を知らせてくれねぇか?」
シルドは全てを悟ったように笑う。
 カレイドは我に帰ると、その質問を心の中で復唱した。

「…お前なら出来るだろ?」
「それは…」
カレイドは言葉を濁す。
 自分が此処にいるのは、あくまで目の前に居る『シルフォード・サリアック』の監視の為だ。
 自分にその必要が無くなれば、自分は恐らく強制送還されるだろう。
 それを思うと、その質問に頷く事は出来なかった。

「お前の事なら心配すんなよ」
「え…」
「俺、…さっき実家に手紙書いたから。俺は一旦帰るから、その代わり――」
シルドは、ニィと口角を持ち上げる。

「『カレイド・クラウス』を此処に置いといてくれ、ってな」

 カレイドの顔色がさあと青ざめる。
「…いつ、から…?」
「少し前から。…いや、お前が来た頃から、何となくちったぁ疑ってた、ってとこか。サリアック家が奨学金出してるってのも知ってたし」
カレイドは言葉が出なかった。

「親父も俺がチビだった頃の記憶力侮ってたな」
「まさか、…僕の顔を…?」
「おう、何度か俺の誕生日パーティー来ただろ、お前」
仮にも組織の次期当主となる息子。
 カレイドはその遠縁といえど親族として、何度かその席に招かれていた。
 シルドと直接顔を合わせたのは――その、数回だけである。

「…凄い、です…本当に」
カレイドはもはや呆れ笑いというか――苦笑いしか出なかった。
「当然だろ、俺を誰だと思ってんだよ」
シルドはクックと笑う。

「大丈夫――俺が置いといてくれ、って言うのはあくまで『カレイド・クラウス』だ」
「…『僕』が自らの正体をバラしたわけではない、ということですか」
「まぁ、そういうことだな」
シルドは軽く笑うと立ち上がる。

「俺が言いたかったのはそれだけだ」
「…あの」
「誤解すんなよ、俺は「一旦」帰るだけだ。…必ず戻ってくる」
シルドは玄関まで数歩歩くと、
「ンじゃ、邪魔したな」
「あの…」
「何だよ、さっきから」
シルドは可笑しそうに笑うと、カレイドは頭を下げた。
「今まで、…お世話になりました。有難う御座います」
シルドは呆気にとられたようにその姿を見下ろすと、その頭を撫でる。

「俺のほうこそ、…世話ンなった。じゃあな」
すると、シルドは其処を後にしていった。


「…俺には何の挨拶も無し?」
「これから行こうと思ってたんだよ」
扉からひょっこりと顔を出すファレイに――シルドは思わず苦笑した。その顔には、シンプルな眼鏡が掛かっている。

「つーか、何で俺がいなくなることわかってんだよお前」
「ちょっと話が聞こえた――ってところかな」
「ま、そういうことにしといてやるよ」
思わずククッと笑う。

「ありがとな、ファレイ。お前にも世話ンなった」
「ああ、…気をつけて行けよ」
ファレイは口元に変わらぬ笑みを浮かべる。

「…本っ当、何も聞かねぇんだな。お前は」
「何か聞いて欲しかったのか?」
「別に。…俺、クレイアに忘れて欲しいって言われちまってさぁ」
シルドは思わず項垂れて呟く。
 彼はこの場所でのシルドの兄のような存在である。
 思わず言葉が出ていた。

「…告白したんだけど、嘘だって言われちまったんだよ」
ファレイは驚いたような表情を浮かべると、「また何で…」と呟いた。

「わかんねぇ、…嫌われちまったのかも」
「…それは無いと思ってたんだけどな」
シルドは覇気無くおう、と頷くと
「ファレイ」
「何だ?」
「…その、クレイアのこと、よろしく頼む」
軽く頭を下げた。
「何で俺に」
「わかんねぇ、…わかんねぇけど、ファレイなら間違いねぇと思うんだ。だから頼む」
ファレイはやれやれといったように溜め息を吐くと
「…、何を頼まれてるんだかよくわからないけど――適当に見張っとくよ」
「おう、…別に、見張っとけって訳でもねぇんだけどな。自分で見ていられないと思うと、何か心配っつーか…別に心配なんて要らねぇんだろうけど」
シルドは笑うと、ファレイに片手を差し出した。

「有難う、世話ンなった」
「…此方こそ」
ファレイはその手を、軽く握り返した。


 シルドの後姿を見送ると、ファレイは部屋に戻る。

「まったく、…血なのか、ああいう…妙に勘が鋭いって言うか、何ていうか…」
扉を後ろ手に閉め、苦笑すると――ファレイはそっと呟いた。


「…忘れて欲しい、ねぇ…」





 翌日。
 まだ日の低いうちに――シルドは、大家に鍵を預け部屋を引き払った。
 ただ、出来る限り部屋は残しておいて欲しいとだけ頼んで。

 朝靄の中、街を後にするべく歩く。
 夕べは、余り眠る事が出来なかった。
 旅路に不安が無いわけでは無いし、どうしても、彼女――クレイアの姿が、脳内をちらついていた。

 本当に、嫌われてしまったのだろうか。
 思い当たる節が多すぎて、シルドは思わず溜め息を吐いた。

 街を抜け、昨日の公園を通る。
 街は市場を始める人たちで多少賑わっていたけれど、流石にこの時間の公園に人はほとんどいない。
 脇に見える農場を眺めて、そういえばメリッサやリリーメ、他の知り合いに何の挨拶もしていないことに気がついた。
 しかしそれはやむを得ない事だろう。急に決めた旅立ちなのだから。
 メリッサの農場にある魔法陣付近は――あえて、見ないことにして通過した。


 すると、公園の出口付近に――朝靄に包まれて、一人の姿が見えた。
 もしや、と僅かに歩調を速める。
 まさか、と一瞬歩調を緩めた。

 真っ黒で艶やかなロングヘア。
 すらりとした肢体。
 そして身に纏うのは――何時もと違う、真っ赤なワンピース。
 その格好には若干ミスマッチないつもの帽子を、いつもより深く被っている。

「クレイア!」
其処にいたのは、紛れも無くクレイアの姿。

「…シルド君」
クレイアは帽子で顔を隠すように俯き、僅かに困ったようなトーンでシルドの名を呼んだ。
 近付いてみて、シルドはやっとその全貌を見ることになる。
 肩を出す形で、アームカバーの付いた長袖のドレス。
 自分の目算で出したサイズはあまりにも彼女にぴったりであった。
 ひらひらと広がるドレープから、真っ白い脚が覗いている。

「凄ぇ、…綺麗だ」
シルドは思わず呟く。
 最早夕べの出来事など頭には無かった。
 ただ、目の前の彼女が綺麗だと。
 それしか、言葉に出来なかった。

 そう、それはあれだけ着せたいと願った真紅のワンピースであった。
 生活費として残しておいた残り金を殆どつぎ込み、せめて最後に自己満足としてプレゼントしようと購入したのである。
 まさか自分が着た姿を見ることが出来るとは――思いもせずに。

「ありがとう、…ごめんなさい」
クレイアは帽子を被ったまま、顔の見えないように呟く。

「何でクレイアが謝るんだよ、…つーか昨日の…と、それはさておき」
シルドはひょい、と帽子を取り上げた。
「ちょっと、…っ」
夕べとは違う。クレイアはやや慌てて帽子を取り返そうと手を上げた。
 シルドは帽子を天高く上げると、クレイアの全身を再び見つめる。
 クレイアはその視線に気付くと、観念したように腕を下ろし長い前髪で顔を隠すよう若干俯き加減になった。

「…いやごめん、本っ当ーに綺麗と可愛いしか言いようが無い」
「…何で、私にこれを?」
「似合うと思ったからに決まってんじゃん。…本当、プレゼントしてよかった」
無邪気に笑うシルドに、クレイアは俯きそっと片手を差し出した。

「…シルド君」
「何だ?」
「手を出して頂戴」
シルドは軽く首を傾げると、そっと手を出す。

 クレイアはその手を軽くとると、もう片方の手をその上で円を描くように回す。
 すると、その手に小さなコルクの栓がされた小瓶が現れた。同時に、クレイアは手を離す。
 中に入っているのは、真っ白な――

「…星の砂?」
シルドはまじまじと眺めると日の出のオレンジの光に透かして中を見た。小瓶の中に、白い砂がキラキラと光っている。
「お守りのようなものよ…別に何に使えるって物でもないから、必要が無ければ捨てて頂戴」
そう呟くトーンは、やはり若干重い。

「…おう、サンキュ」
「あなたが」
「…?」
シルドは思わず首をかしげる。クレイアはいえ、と呟くと首を横に振って言葉を切った。
「なんでもないわ」
「…」
「帰って…くるのでしょう?」
「勿論。…此処は、俺の帰る場所だから…長く見ても5年以内には戻ってくるつもりだけど、短ければ親父との話にケリつけてすぐにでも帰ってくる」
「…そう、…」
クレイアは小瓶を持ったシルドの手をもう一度取り、その小瓶をしっかりと握らせるように手を重ねた。
 その手を見つめるように視線を落とす。表情はあくまでポーカーフェイスのままだ。

「…ごめんなさい」
「…?」
「勝手な事を言って、…ごめんなさい」
表情こそ大差ないものの、その声音は弱弱しく震えていた。
 前髪で隠れて表情は見えない。

「…怖かったの」
「え…」
シルドは驚いたような表情で目を丸くする。クレイアは構わず話を続けた。
「…あなたを好きになることが、…あなたを…好きでいることが」

「あなたは異種族を一切気にしなかったようだけれども、私は――どんなに頑張ったところで、あなたより先に死ぬ事は出来ない」
「…」
「どうしても――怖かったのよ」
クレイアは声を震わせる。シルドはその話をただ聞くことしか出来なかった。
 そっとその肩を抱こうと手を伸ばす。次の瞬間、クレイアの口から出た言葉に――その手は、止まってしまうのだが。

「…シルド君」
「何だ…?」
「私は、…あなたと離れたくないわ。距離だけでなく、心まで離れてしまうのは――」
耐えられない。クレイアの声はどんどん小さくなり、語尾は殆ど掠れていた。仕舞いには俯いてしまい、表情も見えなくなった。
 シルドはそっとクレイアの頭を撫でるように抱き寄せると、クレイア自身から――その胸に飛び込むようにシルドに抱きついた。

「…クレイア」
「好きよ、…愛してるわ、あなたを」
「あー…良かった、俺…嫌われてたんじゃなかったんだ」
「…」
シルドは心底安心した声音で呟く。
「本気で嫌われたかと思った…良かった…」
「…嫌いよ、あなたなんか」
「え…ちょっ」
「…人があれだけ悩んで出した結論を、いとも簡単に覆すのだもの――あなたの一番嫌いなところよ」
その胸元に擦り寄りながら――クレイアは拗ねたような声を出す。
 シルドは思わず小さく笑った。

「ワンピ、着てきてくれてサンキュな。本当、凄ぇ似合ってる」
「人の話を聞いているのかしら……」
「聞いてるって。…本当、このまま浚っちまいたいぐらい――綺麗だ」
そうシルドが呟くと、クレイアはそっと身体を離してシルドを見上げる。

「…あら、浚ってはくれないのかしら?」
クレイアはそっと手を伸ばすと、その頬をそっと撫でた。

「無茶だって知ってるくせに」
「あなたにも少しぐらい悩んでもらわないと」
そう悪戯っぽく笑う彼女の表情に、シルドは敵わねぇなと笑った。

「…俺が、此処に帰ってくるまで――それまで、待っててくれないか?」
「本当、ずるい人ね…卑怯というのよ、そういうの」
「クレイア…」
「冗談よ、…待ってるわ」
クレイアはシルドに伸ばしたままの手を、そっと彼の髪に絡める。

「ずっと待ってるわ、…私はこの地を動く事は無いもの。あなたより先に死ぬ事も無い――死ぬつもりも無いわ」
寂しげに笑うその表情に、シルドは上体を落とすとそっとクレイアの唇を奪った。

 一瞬、だけれども――長い一瞬であった。

「…帰ってくる。俺は絶対帰ってくるから、…待ってろよ」
クレイアは俯きそっと唇に手をやる。色白な顔が紅潮しているのが見えた。

「寂しいわ」
「またそういう…」
「だから、…出来るだけ、早く帰ってきて頂戴」
クレイアはシルドの首筋にそっと両腕を回すと、今度は自分から――そっと口付けた。


「……あなたが帰ってきたとき、…いいえ、私に逢いに来る事があったら――」
「え…」
クレイアは落ちていた帽子を拾うと深く被りなおした。

「さっきの小瓶を、忘れずに持ってきて頂戴」
不意に、シルドは咄嗟にポケットにしまった小瓶を取り出す。
 キラキラと星の砂が輝いていた。

「…それが……あなたと、私を繋ぐ鍵になるから」
クレイアはシルドを向くと、一瞬だけ口角を持ち上げた。

「もっともあなたが覚えていたら…そして、その気持ちが揺らいで居なければ、だけれど」
「…だーかーら、俺の気持ちは――」
「わかってるわ、…だから、無くさないでと言っているの」
クレイアはやれやれという風に溜め息を吐くと、少し笑った。

「私の気持ちは…」
「…」
「私の気持ちは変わらないから、…あなた次第、ということよ。…私はあなたを待っている、それだけだもの」
そう呟くと、ふふと不敵に笑う。
 その笑顔は、シルドの好きな――笑顔であった。


「…帰ってきたら」
「何かしら」
「デート付き合ってくれな」
「…そうね、また誘いに来てくれるのなら」
「付き合ってくれるんなら、俺は何回だって誘いに行くぜ」
シルドは軽く笑うと、忘れ去られていた手荷物をそっと手にした。

「…じゃ、行くわ、俺」
「ええ、…気をつけて」
「ああ、…有難う」


 そう言うと、シルドはクレイアの頬を一度だけ軽く撫でて――そっと髪にキスすると、その場を後にした。
 振り返ると、遠目にクレイアが立っているのが見える。

 その姿が朝靄に包まれ見えなくなるまで、クレイアは立っていた。




「…お守りみたいなもの…か」
街の出口となるゲートに到達するとシルドはポケットから再び星の砂の小瓶を取り出す。
 その星の砂の入った小瓶を日の光に透かしてそっと揺らすと――瓶の底に、何かが書いてあるのが見えた。

「…ン?」
瓶の底に、瓶の形ぴったりに切り取られた紙が敷いてある。砂が乗ってしまえば、隠れて見えなくなる場所だ。
 瓶の底より小さい瓶の口から、どうやって瓶の底ぴったりの紙を敷いたのかは謎だが…それはきっと魔法等で何とかしたのだろう。

 そこには、銀色の細い線で小さく魔方陣が描かれていた。


「…これは…」
それは、よくメリッサの農場とクレイアの農場を繋ぐ魔法陣とよく似たものであった。
 魔法には疎いシルドであるが、元々親の教育で魔法陣等の基礎知識は叩き込まれている。

『これが、あなたと私を繋ぐ鍵になるから』

「…これ、…もしかして」

 その意味を察した途端、シルドは今更一気に顔が熱くなるのを感じた。
 隠すように、顔を手で覆う。


 正確な使い方はわからない。
 けど、また街に戻れば――きっと彼女が教えてくれるだろう。


 自分は、必ず帰ってくる。


 シルドは潮風を頬に感じながら、帰郷への一歩を踏み出したのであった。























-Fin-


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